晴れて退職した

最近ちょくちょく聞く小話に、「老人には教育と教養が必要だ」というのがある。
「おいおい、それって『老人には・・・』じゃなくて、『若者には・・・』の間違いだろ?」
と聞きとがめると、
「いや間違いじゃない。きょう行く所があるのが “きょういく” 、きょうやる用があるというのが “きょうよう” だ。この二つの栄養素を欠くと、老人はみるみるやせ衰えてあの世行きになる」というオチがつく。

まあ一種のダジャレだけど、たしかにある種のリアリティがあるわナ。
とりわけ定年後の男にとっては、身につまされる話かもしれない。

とつぜん話がとぶが、退屈は苦痛の一種である。
それもかなり上位に位置する苦痛である。
とくに定年後にやってくる退屈の苦痛は、他の苦痛とはちょいと味が違う。
どこがどうちがうかというと、ま、いろいろあるが、その主要な部分は次のようなところにあるとわしは思う。

家族のため、生活のため・・・と、歯を食いしばって仕事をしている現役の男たち(女たちもそうだけど)はたいてい、晴れて退職したら・・・と定年後の人生にさまざまな夢を思い描く。
世の一切のしがらみから解放された暁に、手にすることができる胸おどる “輝かしい自由な時間”。
いざその時が来たら、あれをしよう、これもしよう、あれもしてみたい、これもやってみたい・・・と、退職後の花籠を美しい花々でいっぱいにする。

ところが、ですな。その退職が実際にきてみると、思いもかけない現実が待っている。どういうわけか、籠のなかの花々はみんな色あせてしぼんでしまうのだ。手にとってみようという気さえおこらない。

一歩ゆずって、「ついに我に自由は来たれり!」と叫んで手にとる者がいたとしても、花に鼻を近づけてニコニコするのはまあ最初のうちだけだ。多くは1年ともたない。

となると、みずみずしさを失って首を垂れた花など、男はいつまでも握りしめちゃいませんよ。
なにしろ、一切のしがらみからやっと解放されたのだ。イヤになったものを捨てるのにだれに遠慮がいるものか!(とはいっても、みずみずしさを失って首…じゃなかった胸の垂れた女房殿を同列に論ずるわけじゃないよ。念のため。)

かくして、花籠がカラになったあとに無限に続く(…わけはないのだがそう思われる)空っぽの時間が、腕を撫して彼らを待ちうけているのである。

その “空っぽの時間” の大海のなかで、波浪のように鼻先へ寄せてくる窒息死すれすれの退屈。
それにはいうにいわれぬ独特のものがある。
おそらくそれは、その波の向こうに未来がないこととも関係していると思う。

じつは何をかくそう、わしもかつて花籠の花が全てしぼんでしまい、呆然かつ腑抜けとなった “退職後しおれ組” のひとりである。
しかし、退屈の海の塩水をしたたかに飲み、アップアップする中で必死につかんだ一本のワラがあった。

恋に恋する乙女のように “自由の花束” の追っかけをやるのではなく、現実のうえにきちんと足をおいて、今の自分に何ができるか、いやもっと現実に即していえば、窒息死すれすれの今の自由の退屈を少しでもごまかす方法が何かないか・・・とけんめいに模索した結果、ようやく手にした1本のワラであった。

だがそのワラは、人の世の常で、思いもしなかった展開へとわしを導いた。
それをこれから数回に分けて書いてみようと思う。
題して『キッチン・バトル ‐年寄りの水あそび‐』。