ほられる親もい

わたしの父は教養至上主義。母は無教養。
母のポリシーは、
「教養があるからって、何?
そんなこと考えるヒマがあれば、働け〜」である。

馬車馬のごとく、体を酷使して意識を失うまで働くのが、母流。
父も教養もあるが、働き者でもあった。

さて、こんな親に育てられると、、、。
「何? そんなことも知らんのか。レベルが低い奴め」と父目線。
「学校で一体、何を習っているんだ。遊んでいるのか? 働け」と母目線。

教養と労働の押し付け教育。

さらに、時間の無さ。
経済と時間は両立せず。
お金はあっても使うヒマがない父。
なので、どんどん貯まる一方。
やがて、それは一つの趣味になる。貯蓄。
とは言っても、好きにしていたようだが。

遺産を目当てに、勤勉さを欠いては意味がない。
自分の食べる分は自分で稼ぐ。
そういう方針が涼しげで良い。
もたれかからない、自立の道。

だが、大概の親は、お金をチラつかせて歓心を買おうとする。
子供に取られるだけ取られて、ほられる親もいる。
教育は、大事である。

理想ばかりでは、今日のご飯が食べられない。
働かない者、食うべからず。
これは理に適っている。
私が親から無言で教わったものだ。


勉強が出来るだけではAIに負ける。
AIに勝つ、超えるには、ブレンド力や勘の鋭さ。
天性のものではあるが。
末端の作業や、ルーティンが好きな人、得意な人も必ずいる。
彼らに、クリエイティブな能力を要求しても、お互いが不幸。
なんの能力も生産性のない人を否定したら、ボコボコに糾弾される。
真っ先に自分が否定される側になりそうだ。

生産性の定義が難しい。
日本は、土俵際で負け勝負になっている事実をあちこちニュースで垣間見る。

自分のことだけ考えて、引きこもっているのは、わたしのような人物にはちょうど良いのか?
まあ、それはそれとして、惚れ惚れする秋晴れを楽しめる、今日に感謝している。