女性が座っていた

私は定年退職した八年前の2010年4月、フェリス女学院大学オープン・カレッジの「エッセイ入門」講座に初めて参加した。受講生は全部で十一名だった。受講生の内九名前後は不動のメンバーで、毎期数名が新規参加するらしい。講義では、受講生が書いたエッセイに、他の受講生と講師の川西芙沙先生がコメントを述べるやり方をしていた。それぞれの受講生のコメントの仕方は、漢字や言葉遣いの正否を指摘する人、エピソードについて自分も同じような体験をしたと同調する人、効果的な文章の構成について理論的に意見を述べる人など様々だった。

私の真後ろの席に滝上和子さんという女性が座っていた。私が生まれた1950年に東京女子大学を卒業されたときいたので、当時八十二、三歳だったと思われる。滝上さんのコメントは、まずエッセイのよい点をきちんと評価し、その後で実に適切な意見を述べるのが通例であった。辛口の意見も多く支付寶優惠、何を言われるか冷や冷やしたこともあった。品のよい女性で、教養が深く、頭のよい人だなという印象を受けていた。

一年間の講義の最終日、滝上さんから声をかけられた。
「私のエッセイ集です。お読みになるのなら差し上げます」
と著書『石垣の上の家からロマンチストのつぶやき』(2007、三修社)を手渡された。

さっそくページを開いた。含蓄が深く、さわやかな風が流れるようなエッセイ集で、実に面白かった。著者は明晰な思考の持ち主で、即断実行タイプ。様々なひととの出会い、ゆたかな交友、そして別れが胸を打つ。いつも自分の明確な意見と座標軸を持っていて、それを基準に行動方針を決めていく。様々な事柄をゆたかな知性と繊細な感性で観察しており、ユーモアに溢れ、磨き抜かれた文章をじっくり味わいながら読み終えた。歯切れがよく、読みやすい日本語の魅力にも惹かれた。

滝上さんは述懐している。
「傘寿を迎えようとするシニアにも勉強の場が与えられ、願いさえすれば、古い革袋に新酒を満たして生きていくことが出来る。何と有難い世の中になったことか!」

滝上さんのエッセイ集を読んで、私もエッセイ原稿がたまったら、このようなエッセイ集を出版したいと思うようになった。

2011年3月11日、東日本大震災が起こる直前、滝上さんにエッセイ集を読んだ感想をしたため、本を頂いたことのお礼を書いて投函した。一週間ほどして、滝上さんからカリメラス ヨメナ草の絵が添えられた手紙を受け取った。私が丁寧にエッセイ集を読んでくれたことが嬉しかったこと、このエッセイ集がご自分のお葬式用の記念品にするために作ったことなどが書かれていた。四月からの新学期にまたお会いしましょう、と閉じてあった。

四月からの新学期には、教室では私の後ろの席はいつも空席だった支付寶。腰が痛いと言っておられたので腰痛がひどいのだろうなと思っていた。十月になって後期の講義が始まった。そして十月下旬の講義で滝上さんが十月十五日に卵巣癌のため逝去されたことを知った。享年八十三歳。

滝上さんは十年近くこのエッセイ講義に出席されていた。その最後の一年、私は初めてこの講義に出席した。僅かな時間といえば確かに短い時間だった。しかし、最後にエッセイ集を頂き、その感想を書き、心のこもったお返事をいただいた。まさに一期一会そのものの出会いだった。人生は、このような出会いと別れを繰り返していく。

滝上さんが他界されてからもエッセイ教室に通い続けた。教室ではいろいろなテーマでエッセイを書くことが要求され、一年間に十篇余りのエッセイになる。これが三年間で三十篇ほどになり、教室参加以前に書いたものを合わせると五十篇程度になったので、思い切って出版する気になった。2007年に邂逅した医師・作家の大鐘稔彦先生から度々出版の勧めを頂いたこともその気になった理由の一つである。

インターネットで自費出版を手掛けている出版社を調べ、原稿を持って東京恵比寿のパレードという出版社を訪問した。担当の深田さんという女性と二時間ほど話をした。パレード社は既に何百冊もの自費出版を請け負っており、何冊か見せてもらうととても立派な出来栄えだった。最後に私が負担する費用の話になり、確か百万円から百五十万円の間だったように記憶している。

中高生の頃から生涯に一冊は本を書きたいと思っていたので、費用はそんなものだろうと納得できた。しかし五百冊作って友人・知人に五十冊差し上げたとして、残り四百五十冊は本棚に並べておくことになる。無名の人間が書いたエッセイが売れることなどは考えられない。それを思うと出版の決意がにぶった。

ちょうどそのころ、インターネットで、アマゾン キンドル ダイレクト パブリッシングというものができたことを知った。アマゾンのサイトで出版し、アマゾンが全世界で販売するという。しかも費用はゼロ。
「これだ!」
即刻出版に向けて行動を開始した。

しかし世の中はそれほど甘くない。アマゾンは出版サイトを用意して、出版の方法を説明しているが、質問や相談は受けつけず、アマゾンの設定通りに作業しなければならない。作業を始めた途端に問題が発生してそれ以上進めない。パソコンに詳しくない私にはとてつもなく高いハードルだ。やはり出版は無理かな、と何度も考えた。

ところが東京に住んでいる、パソコン・インターネットに詳しい吉川さんという友人に相談してみたところ、全面的なサポートをしてくださり、2014年2月にアマゾンサイトで出版することができた。タイトルは
『五年早い定年退職-それからの楽しき日々-』
とした。思いもかけず、作家の大鐘稔彦先生が推薦の辞を書いて送ってくださった。本を出版したいという半世紀の私の夢がかない、天にも昇る気持ちだった。

調べてみるとインターネットには「製本直送.com」というサイトがあり排毒瘦身電子書籍を紙の本に印刷製本してくれることを知った。一冊千二百円で製本してくれる。五十部ほど製本して友人・知人に送った。電子書籍の方は一冊三百円で販売しており、これまでの四年間で千部ほど販売された。出版前は想像もしなかった販売部数である。一冊二百十円の印税がアマゾンから私の三井住友銀行の口座に毎月振り込まれている。

本はエッセイ教室の先生と受講生の皆さんにも差し上げた。出版後もフェリス女学院大学のエッセイ教室に出席し続けた。教室では年に一、二度みんなで懇親会を開いており、それはそれは和やかで楽しいうたげだった。

受講生の中に野口昭子さんという小柄な女性がいた。東京地裁の書記官をされていて定年退職して十年ほど経っているとおっしゃっていた。一昨年、野口さんに何度かエッセイ集出版の相談を受けた。フェリス付近のスーパーマーケットで偶然お会いした際
「人生はそんなに長くないですから、出版されるなら、今すぐアクションするのがいいですよ」
と野口さんに申し上げた。野口さんの依頼で、次の日に恵比寿の出版社「パレード」の深田さんに電話をして上げると、野口さんは翌日出版社に出かけて行った。その後はとんとん拍子に出版作業が進み、2016年6月に自費出版の本が出来上がった。本の表紙は野口さんが書いたパリの教会のすばらしい絵で『レモン・イエロー』というタイトルだった。野口さんは実に満足そうなお顔をしていた。私も署名入りの本を頂いた。その後教室で発表されるエッセイはますます洗練されたものになり、ご本人も一段と創作意欲を燃やしておられた。

2017年4月にエッセイ教室に行くと、川西先生から、野口さんが1月に亡くなられたことを知らされた。普段通りに生活しており、朝亡くなっていたという。七十代の後半だったと思う。今『レモン・イエロー』を手に取り、エッセイを読むと、目の前にもの静かな野口さんが立っている気がする。

私は2017年7月まで7年半エッセイ教室に通っていた。年末になるとフェリスの費用負担で百ページ前後の文集を作っている。私が2010年4月に初めて参加するまでは他の人が文集の編集作業をしていたが、その人に事情があるそうで、先生と受講生から依頼を受け、この年から私が編集作業をするようになった。ワードの文集フォーマットは既にできていた。
編集作業の中身はそれなりに神経を使うワークであり、作業量もある。
①まず、受講生十名余りからエッセイを2篇ずつ集める。ワードファイルで作ってもらうが、年配者で手書きで提出する人もいる。
②手元に来た原稿から順番に文章フォーマットに入力する。これはコピーアンドペーストでできるから楽である。手書き原稿は、私が文章フォーマットに打ち込むことになる。
③フォーマットに入力する段階で気が付いたミスは一覧表にして先生に提出する。
④先生が全文を読んで加筆訂正。これを受けて私が修正作業。
⑤先生から全エッセイの順番表をメールで受け取り、エッセイの順番を変更する。
⑥先生の「あとがき」を追加入力し、表紙、目次、あとづけを作成して
フェリス女学院ドキュメントセンターにデジタルファイルで提出

私は変に責任感が強く、完璧主義者なので、作業に手を抜けなかった。一年目、二年目は初めての文集編集作業であり、緊張感をもって楽しく作業ができた。ところが三年目、四年目になると作業としての新鮮さがなくなり、一方で結構な作業量があるので多少負担を感じるようになってきた。四年も編集作業を担当していると、エッセイ教室では「編集作業は村上さん」という雰囲気が醸成されていた。このようななりゆきで2015年、2016年も編集作業を担当した。編集時期が近づくと多少憂鬱な気分になった。

2017年、93歳の母が直腸脱という病気になり東名厚木病院で手術を受けた。主治医の外科医から術前に「高齢なので手術しても再発する可能性が高いです」と言われていた通りで、母の直腸脱は一か月で再発した。母のケアのことがあり、エッセイ教室も7年通ったこともあって、2017年10月からの、後期授業から一旦教室をやめることにした。
先生からメールがきて、後任の編集者がいないのでやむなく七十代後半の先生自身がやることにしましたと書いてあった。しかしその後直ぐ、私と同年代の榎田さんという男性が名乗り出て、編集作業をすることになったときき、ほっとした。榎田さんはみるからに実直、誠実な性格で、2017年の12月にはそうとうの時間と労力をさいて編集作業をされたのではないだろうか。初めてで大変だったと思う。

一方の私は編集作業から解放されて楽しい年末を過ごせる筈だった。ところが世の中は皮肉なもので、急に食欲不振でほとんど食べられず、体重が減り続け、何もやる気が起こらず、夜も余り眠れなくなってしまった。
近所のかかりつけ医の名医(相澤一喜先生)に
「先生、直していただけますか?死ぬことはないですか?」と問い
「大丈夫、元気になります。私を信じて、薬を飲んで下さい」という会話までした。

12月は憂鬱で苦しい日々を過ごし、1月初めからようやく少し食欲が出てきた。その後は徐々によくなり、今はほぼ元に戻りつつある。原因は母の直腸脱の心配などのストレスでしょうと主治医から説明を受けた。

榎田さんはがっちりした体格でみるからに健康そうだった。12月にしっかり編集作業をし、1月10日に立派な文集ができたときいた。ところがその直後、先生からメールが届いた。榎田さんが15日に急逝されたという。ご家族も驚くような急変だったらしいが、死因など詳しいことはメールには書かれていなかった。

エッセイ教室の仲間の一人、服部さんから、榎田さんは2018年の5月にエッセイ集を出版したいと考えており、先生からサポートの約束を得ていたときいた。榎田さんは1月10日にできあがった文集を見て、5月に出来上がるエッセイ集を頭の中に描いていたに違いない。

榎田さんは日本の歴史が好きで、北条時宗などの歴史上の人物の生涯をトレースしようといろいろな史跡を訪ね歩いていた。その探訪記を格調高い文章で綴っていた。
「瑞鹿山円覚寺は、鎌倉幕府の八代執権北条時宗により創建されたお寺であり、文永の役(一二七四年)の後、弘安元年(一二七八年)から文永の役戦没者の菩提を弔うために創建が始められ、弘安の役(一二八一年)の翌年の弘安五年(一二八二年)に完成した。これにより、二度の元寇の戦いで戦没した敵味方の殉死者が弔われた」
私が2017年に編集した文集に所収されている榎田さんのエッセイである。

榎田さんは十分な量の原稿を用意されていたものと思われる。エッセイ集出版を目前にして急病に倒れられ、さぞかし残念であったであろう。

昨年の十二月、精力的に文集編集作業に活躍された榎田さんが世を去り、同じ十二月は体調不良でほんのわずかしか食べることができず、やる気もまったく失い、このまま重篤化して死ぬのかとさえ思った私がまだ生きている。一歩先の人生はわからないものだ。

手元にあるエッセイ集『石垣の上の家から』、『レモン・イエロー』と文集『おぱーる』を紐解くと、滝上和子さん、野口昭子さん、榎田純一さんが生前の姿で完全によみがえる。三人の笑顔が浮かび声までが聞こえてくる。書籍というものの再現力の強さを初めて経験している。そして滝上さんから私へ、私から野口さんへ、私から榎田さんへの縁、不思議なめぐりあわせに運命的なものを感じている。

本というものは著者とともに生き続けるのだ。生前かかわりのあったお三方が全身全霊を上げて書かれたエッセイを折に触れて読もうと思う。