隠しておきたい

抜ける様に空が澄んだ秋の休日、上品な中年の男性が下井草にある加奈のアパートを訪ねた。

彼は丁寧な言葉遣いで、悠馬の伝言を伝えた。
即ち、井上コンツェルンの長男で通渠佬ある悠馬が、ネットを通じて加奈を知った事。
彼は加奈のネット記事に非常に感動した事。
一度お会いしたいという事、である。

そして、如何にも物慣れたこの紳士のいうままに、加奈は普段着のまま古いバックを肩にかけて、待たせていたBMWに乗り込んだ。

「とても逆らえる雰囲気じゃなかったの」
話し続ける加奈の目にその時の怯えが再現した。
美希は黙って熱い紅茶を入れた。

 

加奈はそれっきり表参道の高級マンションの一室で軟禁される形に通渠なった。

厚い絨毯が引かれ、はめ殺しの小さな窓がついた北向きの部屋である。
ビジネスホテルの一室の様に、ベッドと机、クローゼット、バストイレが付いていた。
エレベーターで上がった感じでは5階くらいだろうか?

彼女は薄いベージュの部屋着を与えられ、同色のスリッパを履いた。
バックから鍵と定期と保険証とスマホが抜き取られたが、後は元のままでクローゼットに入れてある。

悠馬はその日の内に彼女の部屋を訪れて、ここに一緒に住んで欲しいという意味の言葉を呟いた。
そして、密かに人に頼んで入籍したのを許してくれと言う。

上品で優雅な男の外観に、加奈はぼーっとなった。
日本を代表する実業家の息子が自分を望んでいる。きっと人に隠しておきたい事情があるのだ。
根の甘い加奈はつい騙されてしまった。
緩い鎖で縛られた様な陶酔感さえあった。

事前に、ごく親しい友人達に「井上コンツェルンの息子から結婚を申し込まれ、保健枕表参道にこれから住む」とメールはしている。
それは嬉しい知らせというより、加奈の遺した保険だった。
このビッグニュースの成り行きを必ず気にしてくれるだろう。
特に報道する立場の人間ばかりだから、それなりにfollowしてくれないかと期待していた。

しかし、たった一つの頼りのスマホは取り上げられた。
せめて、絶対悪人には見えない悠馬を信じたかった。

最初の二、三日は短い外出は許されていた。
近くのコンビニで必要品を揃える位自分で出来たのだ。
眠れない夜を明かした翌日、彼女は追ってを気にしながら区役所に行った。
戸籍を確認したかったのだ。

幸いにも身分証明書として加奈はマイナンバーカードを洋服の内ポケットに入れていた。
そこで、彼女の戸籍を確認出来た。
彼女の戸籍も住所も変わっていなかった。

騙されている。
加奈はゾッとした。
突っ立ている加奈は背後から肩を叩かれた。
悠馬付きの秘書の大葉が厳つい顏で加奈を睨んでいたのである。