東海地震が連動

信濃にある「小海線」は、日本で最も標高の高いところを走っている鉄道だ。小諸から山梨の清里を通って小淵沢まで通っている。子供の頃から、「内陸なのになぜ海がつくのだろう」と不思議に思っていた。

小海だけではなく、「海ノ口」や「海尻」まである。八ヶ岳山麓にあるこれら地名はいったい何なのだろうと。

数年前、軽井沢に移住したころ、仕事(土木、建築、砂防、自然災害関連の日英翻訳)で参考文献をネット検索しているときに、とある論文を見つけ、その謎が解けた。

その論文とは、群馬大の早川由紀夫教授による「平安時代に起こった八ヶ岳崩壊と千曲川洪水」。かいつまんで言うと、Dermes Medilaseかつて八ヶ岳で大崩壊があり、土砂が川(千曲川の上流)を堰きとめ、巨大な堰止め湖ができた。堰止め湖が決壊して、大洪水が起こった、というもの(なお、同論文では崩壊の原因とされる「八ヶ岳の水蒸気爆発」説は否定している)。

その堰止め湖は海のように広かったのだろう。だから海に関する地名ができたわけだ(もともと地名というのは、地形や土地の歴史を反映しているものだから)。

「かつて」というのは887年の8月22日。それはどんな時代だったかというと、空海高野山金剛峯寺を建てたのが806年。平将門が乱を起こしたのが935年。

887年の8月22日に起こったのは、「仁和地震」。南海地震東海地震が連動して起こったらしい。たぶん近い方の東海地震の震動で、八ヶ岳天狗岳が崩壊した(現在の長野県による「東海地震による想定震度」では小海町は震度5弱)。

大量の土砂が千曲川支流の大月川を堰きとめて(「大月川岩屑なだれ」)、堰止め湖(「古千曲湖I」)ができた。どんな場所でどのくらい広いかというと、研究者の調査では以下のような感じ。

(最初にできた堰止め湖「古千曲湖I」。水深は130メートルあったという)

これは満杯になった状態。ここまでなるのに約10ヶ月かかった。そして888年6月20日、ついに決壊し、大洪水が千曲川沿いを襲った。

佐久市では千曲川両岸の平地も洪水。今のヤマダ電器から国道141号をちょっと南下すると下り坂で橋がある。その下は湯川。つまり湯川の北岸は崖になっている。この崖に洪水がぶち当たって、西側(千曲川と合流する方向)に流下したようだ。

この橋を通った時、「そうか、この崖の上に住んでいた人たちは、洪水にあわずに助かったんだ」と明暗を分けた人たちを思った。

この決壊による洪水後も、堰止め湖は残った。それが「古千曲湖II」と呼ばれるもの(水深50メートルと推定)。こちらはその後130年くらい残っていたらしい。

堰止め湖の上流側に「海ノ口」があり下流側に「海尻」がある。他に「馬流(まながし)」や「広瀬」という地名もあり激光脫毛價錢、こうした地名は100年以上存続した「古千曲湖II」に由来する地名という。

人々は、最初の恐ろしい崩壊、堰き止め、決壊を目の当たりにし、さらにそれから何世代にもわたって第二の堰止め湖と共に生きてきたのだ。

では「小海」はというと、そう、「古千曲湖I」が「大海」だったわけで、その決壊後、そこからちょっと下流に、千曲川の別の支流「相木川」が流れていて、そこが流れ出た土砂で堰き止められ、「小さい海」(「古相木湖」)になった。

(上のほうが「古相木湖」で、下の方が「古千曲湖II」)

なんとこの「小海」は、それから600年以上も残っていたことが、戦国時代に描かれた絵図からわかっている。

ちなみに映画「君の名は。」の「糸守湖」のモデルと言われる松原湖は、天狗岳崩壊による大月川堰き止めの結果できた湖と言われている。

さて、887年の天狗岳崩壊だが、また崩れる可能性はあるのか。将来の東海地震でどうなるのか、と不安がよぎったが、よく考えてみたら、仁和以降、東海地震は何度も起きている。南海、東南海、東海の3連動地震も起きている。だが再崩壊はなかった。とりあえず安心である。

と思ったが、崩れた天狗岳の西側にある稲子岳は、なんと基盤からほぼ完全に分離している移動岩塊だそうだ!!


(これが稲子岳。右側の「南壁」を登攀するクライマーも多いようだ)

今後崩壊する恐れなきにしもあらずだから、観測体制を整えるべきだ、という研究者もいる。あな、恐ろしや。

対策を講じて欲しいと言ったって、大きさは、横1000m x 縦700m x 高200mもある・・・。